【街景寸考】成長してきたか

 Date:2015年01月14日08時40分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 若いころの自分と60歳を過ぎた今の自分と、どう違うのだろうかと思うことがある。物の考え方の本質が若いころと変わってないような気がするからだ。要するに人間的に成長してきたという実感がもてないのだ。ここで言う考え方の本質というのは、魂と言い換えたほうがいいのかもしれない。これまで仕事や地域の活動を通して、様々な人たちと出会い、交流を重ね、多くの波風も人並みに経験してきた。当然これらの経験が魂の養分となり、少しは物事の道理に通じる人間に近づけていたのではないかと考えていたが、実際はそうでもなかったと思えるのだ。

 こうした経験で得てきたものは、単に人馴れをしてきただけのことであり、人の世を生き抜いていくための要領が身についただけだと言えなくもない。人に馴れ、いくら要領の良い人間になっても、魂の成長とは何の相関性はないように思う。精神性の成長を目的に本を読むなどして知識、教養を高めてきたつもりだが、身になってきたという実感は少しもない。吸収する力がなかったということもある。今は教養のためにとかを考えて本は買わない。自分が面白いと思う本を読むようにしている。

 以前読んだことのある本の中に、老人とは単に「年をとった人」という意味だけでなく、「まろやかな人」という意味もあるという記述があった。「温和な人」「穏やかな人」という意味である。魂の問題はともかくとして、60歳を過ぎたのだから少しは「まろやかな人」に近づいてきたはずだという自負はあった。ところがカミさんの評価はまったく逆のものだった。「最近、こらえ性がなくなってきた」である。

 開き直るわけではないが、文学や哲学を極めてきた人は別として、多くの人たちは魂の成長を得ないまま一生を送っているのではないかと考えた。こうも考えた。「強い者、賢い者が生き残るのではない。変化する者が生き残るのだ」(進化論)というダーウィンの言葉は「節操なく要領よく生きていく者」が生き残るという解釈もできるのではないかと。問題は魂の成長ではなく環境に適応していくことなのだと。肩の力を抜いた人生観として使えそうだ。

 魂を見事に成長させる数少ない例は、子どもを産み、育てる女性たちだ。逆に男たちは先天的にも後天的にも成長ができない設計になっているように思う。「男たち」を「人類」という言葉に置き換えることができる。