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【街景寸考】千の風になりたい
Date:2015年08月12日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
祖父が眠る墓に初めて行ったのは高校生のときだ。その墓は風光の良い墓苑のようなところにあるものと勝手に思い込んでいたが、お寺の境内にある小さな納骨堂にあった。納骨堂の中は薄暗いロッカールームのような造りだった。縦80cm横40cmほどに区切られた50基ほどある小さな墓の一角に祖父の墓は納められていた。
人は死んだら骨になり、墓の中に入るというのが一般の形である。墓苑にあるような立派な墓でも、納骨堂にあるような小さな墓でも、墓であることに変わりはない。どちらも狭苦しい骨壺の中に収まっているのも同じである。骨と共に自分の魂も骨壺の中で延々と窮屈な日々を過ごさなければならないのかと思うと、怖くなったり悲しくなったりした。
死んだら誰もが公平にそういう窮屈な境遇になるのなら、我慢するしかないと自分に言い聞かせてきた。墓の中での唯一の楽しみは、彼岸や盆に家族が墓の前で手を合わせてくれることぐらいしかないと思ってきた。
ところが秋山雅史氏が歌う「千の風になって」を聴いたときは、この心境から解放された思いだった。墓の中の魂も自由に出入りができるのだと思い、嬉しかった。その気になれば骨壺から抜け出し、千の風になって大きな空を吹きわたることができるのなら、こんな幸せなことはない。
「そこ(墓)に私(魂)はいません」ので、家族もわざわざ墓参りに来なくて済む。こちらからいつだって風になって家族の顔を見に行くことができる。家族は風に向かってちょっとだけ手を合わせてくれれば十分だ。墓からずっと出っ放しの人もいるかもしれない。もしそのことが許されるなら、墓苑や納骨堂は特に要らないという考えがあってもいい。
2番目の歌詞には、魂は光にも、雪にも、星にもなることができるとある。それが可能であるなら魂は永遠に爽快な気分で過ごすことができそうだ。こういう幸せな死後があるとは考えてもみなかったことだ。これなら死ぬときの恐怖も随分和らげることができそうだ。いっそのこと火葬後はどこかの山にでも散骨してもらった方が、直ぐ風の中に溶け、吹きわたって行けそうだ。
93歳になる母がいる。以前、その母も笑いながら散骨を希望していたことがあった。真偽のほどは分からないが、今のところそれを確かめる勇気はない。