【街景寸考】無神経な輩

 Date:2015年09月23日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 カミさんとコインランドリーに行ったときのことだ。毛布やコタツ蒲団を洗うため、一番大きな洗濯機を使おうとしたら、洗濯物が入ったままになっていた。洗濯機はすでに止まっていた。辺りに誰もいないので、待つしかなかった。しばらく経っても先客は現れなかったので、ランドリーを運営する会社に連絡をして来てもらい、洗濯物を取り除いてもらった。

 同じ無神経な輩を電車の中でも見た。悪びれもせず二人のおやじが並んで優先席に平然と座っていたときのことだ。博多駅から杖をついて乗り込んできた高齢のご婦人が、たまたまその優先席のそばに立つことになった。間もなく電車は動き出し、揺れる車内でご婦人は頼りなげに両足と杖で踏ん張っていた。その婦人が二人のおやじの視界に入っているのにも拘わらず、どちらも婦人に席を譲ろうとする様子はなかった。

 何ともそれは誰の目から見ても見苦しい光景だった。彼らがご婦人の存在に気が付いていなかったのなら無神経極まりなく、気が付いていたのなら非道な仕打ちだと言わねばならなかった。自分が遠山の金さんだったら、両人とも打ち首獄門に処しているところだ。

 ご婦人は電車の進行方向にしっかりと向き、微かに笑みさえ浮かべているように見えた。その表情の中には「自分は大丈夫、心配しないで」という気遣いを辺りの乗客に伝えているように見えなくもなかった。

 例はもう一つある。浮羽の道の駅に行く途中のことだ。前を走っていたワゴン車が踏切の手前で一時停止した際、後部座席にいた子どもが車窓からゴミを捨てるのが見えた。その直後に助手席側のドアが開き、父親らしき男の頭が見えた。てっきり我が子を叱りながらそのゴミを拾おうとしているのだと思っていたら、まるきり逆だった。その男は更に半身を乗り出し、煙草の吸殻入れを何のためらいもなく道路にひっくり返したのだ。

 近年、こうした打ち首獄門に処したい輩が増えてきた。熾烈な競争経済が人間同士の絆を壊し、心身を蝕み、学問の意義を失わせてきたからか。この傾向はもはや道徳でも哲学でも、心療内科であっても止めることができないように思える。

 日本人が変わってきたというより、壊れてきたという実感がある。この状況を修復にはどのような手立てがあるというのだろうか。地球の滅亡よりも残念なことのように思う。