【街景寸考】熟練できないことがある

 Date:2015年10月21日08時01分 
 Category:エッセイ 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 世の中には熟練できることと熟練できないことがある。熟練できることであれば、段々そのわざや動きに無理、無駄がなくなり、巧みさや美しさを極めていくことができる。スポーツや日本舞踊、木工細工や機械部品の加工などが典型だ。

 キャッチボールの例を挙げてみる。あまりキャッチボールをやったことがない者は、ボールが自分の方へ飛んできているのに、それが待てずにグローブを前の方に差し出し、捕球しようとする。この態勢では動きに余裕がなくなり、身体も自在に動かすことができなくなるので、捕球に失敗したり捕球ができてもぎこちない格好になったりする。

 キャッチボールを繰り返していると段々身体の力を抜くようになり、腕を軽く畳んだままボールを待つようになる。間近に来たらグローブでボールを吸い込むように捕球ができるようになる。これがキャッチボールを熟練した成果だ。もっとも何をするにもそうだが、正しい基本を身に付けることがまず優先されなければならない。

 熟練をしたくてもできないことがある。例えば家づくりがそうだ。我々庶民は一生のうちに1回しか家を建てることができない。「家は最低3回建ててみないと理想の家は造れない」という声を耳にしたことがあるが、とても現実的な話とは思えない。例え住宅ローンを3回借りることができたとしても、返済することは不可能だ。余程の金持ちがそう言ったのかもしれないが、庶民感情を傷つける言葉でしかない。

 人生も家づくりと同じだ。1回きりしかないのでやり直しができない。熟練というものができない。せめて2回あれば1回目の反省ができるので2回目はより充実した人生を送ることができそうだ。1回きりしかないので晩年になってから反省をしても、あまり意味はない。多くの人が世間を気にし、世間の真似をしようとするのは、人生が1回きりしかないことを無意識に思っているからかもしれない。

 これまで自分の人生の節々で願ってきたことがあった。それは、これまで生きてきたと思っていた人生が実は夢だったというものである。その夢が小学校の授業中に覚めるのである。この願いが現実のものになったら、それまでの人生をいくらでも反省ができ、小学生のときからやり直すことができるのだ。凄い大人になれそうだ。