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【街景寸考】叔父のこと
Date:2015年12月09日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
7年前に亡くなった叔父のことをときどき想い出す。想い出すのは祖父母と叔父が暮らす炭坑の長屋で一緒に暮らしていたときのことだ。母が父と離婚し、病院で働くことになったため、まだ2歳だった私の養育を祖父母に託すことになったので、そうなった。
私は叔父を「兄ちゃん」と呼んでいた。「兄ちゃん」とは15歳の年齢差があった。身長が153cmほどしかなく、男としては小柄だったが頑丈そうな身体をしていた。口数が少なく、坑夫仲間といるときは静かに笑っているような性格だった。物静かだったが飯を食うときも歩くときも速かったので、仕事もてきぱきできたに違いなかった。
職場で野球大会があるとき、叔父はいつもピッチャーマウンドに立っていた。小柄な叔父が屈強な坑夫たちを従えながら投げているように見え、誇らしく思えた。相手バッターが空を切ると目を輝かせた。
ある日、職場の休憩小屋にいる叔父のところへ祖母から頼まれた弁当を持って行ったことがあった。小屋の引戸を開け、叔父を見つけると、私は「兄ちゃん、弁当」と小さく叫んでいた。数人いた坑夫の一人が「おっ、○○さんの隠し子じゃなかね」と言うと小屋の中は爆笑の渦に包まれた。叔父も笑っていたが声は聞こえなかった。「隠し子」がどういう意味なのかは分からなかったが、叔父が冷やかされていることは何となく理解できた。
休日の叔父は卓球の練習をしていることが多かった。練習相手は田中さんという眼鏡をかけた職場の同僚だった。練習を始める前、必ずどちらかが私にラケットを持たせ、卓球台を挟んで遊んでくれた。二人は職場を代表して対外試合に出場していたようだった。
叔父が花嫁を迎える日が迫っていた頃、叔父は「遊んでやれるのはこれが最後だぞ」と私に言って、畳を土俵にして相撲の相手になってくれたことがあった。小学4年生の頃だった。この1年前、私は祖父母の元を離れ、母と隣町で暮らすようになっていた。それでも毎週土曜日になると祖父母の家に行き、翌日曜日の夕方まで過ごすのを習慣にしていた。
「これが最後だぞ」という叔父の言葉は、この習慣を続けることができなくなるという意味だった。叔父は「さあ、ぶつかって来い」と私を促し、腰を幾分低くして両手を広げる格好をした。私は頭を低くして叔父の懐に飛び込んだ。叔父がびくともしないので繰り返し飛び込んだ。叔父はわざと耐え忍んでいるような声を上げていたが、顔は笑っていた。私は、叔父の懐に頭を突っ込んだまま「これが最後か、最後か」と、うわごとのように呟いていた。
炭坑が閉山した後、叔父は電気工事の資格を取り、二人の息子を立派に育て上げた。晩年は、テレビを見ながら酒を飲むのが唯一の楽しみのようだった。その酒がたたり74歳で逝ってしまった。たった一人の「兄ちゃん」の死だった。