【街景寸考】空虚な拍手

 Date:2015年12月16日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 若い頃、ボーリングが大流行した時期があった。仲間の誰もがボーリング場に行くので、仕方なく付き合っていた。最初はただのボール転がしだと思っていたが、ストライクやスペアを取るには一定の能力が必要であることが分かった。その時点で少しは上手くなってみたいと思ったことがあったが、のめり込むことはなかった。お金がかかり過ぎる遊びだったからだ。高得点を出しても他のスポーツのような喜びや感激が味わえないという点も、続かなかった理由のように思う。

 続けたくない理由はもう一つあった。スコアを競っている相手がストライクやスペアを取ったとき、当然のように拍手しなければならない習慣のようなものが好きではなかったからだ。競っている最中に敵側が得点するたびに拍手を送るようなスポーツはない。スポーツは勝負事であり、負ければ悔しい。悔しいのに心から拍手を送れるというのは自己欺瞞でしかないのではないか。

 花札遊びに例えるなら、相手が掛け金の大きな役を作ったときに、憎しみを覚えることはあっても相手に拍手を送るなど絶対にない(例えが悪かったか?)。というわけだから、自分がストライクを取ったときに相手側からもらう拍手もうそ臭く、素直に喜べなかった。実際、機械的というか、事務的というか、そんな拍手になっていた。

 カラオケボックスでの拍手もボーリングのときと似ている。誰かが歌い終わるたびに拍手をするのが習慣になっているからだ。ここでの拍手はボーリング場での拍手よりも抵抗感がある。歌っている最中に同行者たちを観察したことがあるが、ほとんど誰も聞いていない。次に歌う自分の曲目を懸命に探しているだけである。そのくせ歌い終わることが分かると一斉に白々しい拍手をする。シンバルを叩くおもちゃの猿のような拍手だ。

 何かの行事なんかで挨拶する来賓に拍手するのも不快である。大抵、中身がなくて空虚な挨拶であり、だから聞いている人々の拍手も空虚になる。なかなか終わらない長ったらしい挨拶の場合は、拷問を受けているような気分になり、殺意さえ芽生えることがある。こんな場合でも拍手をしてやらなければならない文化がある。

 拍手はやはり心から称賛したときのものに限る。拍手の音まで心に快く響いてくる。