【街景寸考】どう死と寄り添えるのか

 Date:2015年12月23日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 人はいつか死んでしまう。百も承知のことだが、元気なときは自分の死をあまり考えたりはしない。地元の葬祭場では毎日のように誰かの葬儀が行われ、事故、事件、災害などで人の死が報道されない日はないのに、自分とは無関係な死として心を動かすことはない。

 ところが65歳を過ぎてからは、ときどき自分の死を考えるようになった。気が付いたらいつの間にか考えているという場合が多い。時間が止まった中で考えているという感じでもある。ただ漠然と考えているだけなので、一刻は不安な気分になったり、神妙な気分になったりするが、直ぐ日常的な思考に戻ってしまう。

 自分の死が間近にあれば正面から対峙するほかなく、このときばかりは腹を括るしかなかろう。腹を括りながら、嬉しかったこと、後悔したこと、申しわけなかったことなどの記憶を辿るに違いない。いずれの記憶も懐かしく思いながら、自分が死んだあとの子どもたち家族の幸せを願うのではないか。

 そして「何か遣り残したことはなかったか」「まあまあの人生だったと言えるのか」「少しは家族を幸せにすることができたのだろうか」「魂は現世に留まるのか、それとも浄土へ行ったきりになるのだろうか」などの疑問もあれこれ考えそうだ。

 これらの疑問をいくら考えても、ただ堂々巡りするだけだと想像する。結論まで至ることができずに窮したとき、神仏に心の拠り所を求めることになるのではないか。神仏のことを本気で考えたことはないが、無意識に手と手を合せる心境になりそうだ。神仏は自分の弱さの中にあるという言葉を思い出したが、そのとおりだと感心する。

 合掌したときに現れるのは神様の方か仏様の方かを考えた。仏様は極楽浄土に優しく招いてくれるというイメージがあるので、やはり仏様の方を選びたい。以前、どこかで仏陀の絵を見たことがあるからかもしれない。

 神様は日本の神社に祀られているが、顔が定かでない。その神様とは初詣のときだけの関係しかなかった。その関係も10年ほど前から断っている。20枚買った宝くじを神棚にあげて柏手を打って何度も拝んだのに当たらなかったからだ。

 結局、自分の場合は仏様の方に寄り添って行くしかなさそうだ。母が亡くなってから仏壇の前で手を合わせる機会が増えたということもある。仏様とはこの程度の関わり方でしかないが、少しずつでも自分の死にソフトランデンングして行ければ幸いである。