【街景寸考】我が家のピアノ

 Date:2016年02月03日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 まだ子どもたちが小さかった頃、思い切ってピアノを買った。分不相応だということは百も承知だったが、貧乏所帯にピアノを置くことで少しは文化的起爆剤になるかもしれないという思いがあった。4歳の三男に音楽の才能があるような予感もあった。根拠が特別にあったわけではない。願望を予感だと勘違いしただけだったかもしれない。もし三男がダメなら長女にでも習わせればよいという、いい加減な気持ちもあった。長男と次男はスポーツ系のように見えたので、端から対象にしていなかった。

 専用の運搬車で運ばれてきたピアノは、狭くて古い2DKの借家にはいかにも不釣合だった。6畳の畳部屋に収まったピアノは、その瞬間からこの家の主(ぬし)のような存在感を放った。本来なら収まるべき相応しい家があったはずだと思うと、ピアノが気の毒だった。

 早速、三男をピアノ教室に通わせた。が、3カ月ほど経った頃に教室側から助言があった。「まだピアノを習うには少し早いようですね」というものだ。助言というより勧告に近かった。教室内での三男は、ピアノ以外のものばかりに興味が向き、ピアノを習いたいという気持ちが見られないというのが理由のようだった。

 幼い頃のモーツァルトと三男がどこかで重なるような姿を想像したこともあったが、シャボン玉のようにあえなく壊れて消えることになった。長女の方はまだ1歳だったので習わせるには早すぎた。

 買ったばかりのピアノをただの置物にする気にはなれなかったので、父親である私が習うことにした。テキストは「よい子のピアノの本」だった。最初の5、6曲くらいまでは何とか弾けたが、7曲目辺りから複雑な指の動きを要求されるようになってきたので嫌気が差してきた。それで1年も経たずに挫折することになった。

 数年後、小学生になった長女にピアノを習わせた。意外にも5、6年間は続いていたようだった。その後、三男が教員採用試験の2次試験に必要だということで、短期的に集中練習をしている姿が見られた。

 ピアノの前に誰かが座るということは、このとき以来なくなり今日に至っている。夫婦二人だけの暮らしになってからは、同じリビングを共有しながらもピアノとの距離感は段々遠くなり、ときたまカミさんが拭き掃除をするだけの関係でしかなくなった。

 今、7人の孫娘がいる。この買物が失敗だったか否かの結論は、まだ先送りができる。