「餓鬼大将」の文化が消えた罪

 Date:2012年05月07日09時54分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
以前、小欄で私が小学校の頃から大の勉強嫌いだったことに触れたことがあったが、遊びに関しては誰にも負けなかったということも言っておきたかった。とことん遊んだから、勉強が嫌いになっただけで、勉強が嫌いだったから仕方なく遊んだわけでは決してない。
 
 チャンバラごっこ、三角ベース野球、アケビ採りや魚取り、メンコ、ビー玉、カン蹴り等々、数えれば切りがない。遊びの施設や整備された広場がなくても、野原や空地、路地裏や神社の境内と、どんなところでも遊びの舞台にすることができた。

子供が集まれば、縦と横で編まれる「子供社会」ができた。「餓鬼大将」は下級生の面倒を見、遊び方を教えた。ときにはいじめや喧嘩はあったが、治めようとするルールがあり、優しさも心得ていた。そして、そこでは運動能力を養い、大人になるための精神性も磨くことができた。
最近行った文部科学省の調査では、今の8歳児の運動能力は昔の5歳児程度しかないということだった。昔たくさんあった遊び場がなくなり、あっても遊ばなくなったのだから当然といえば当然だ。

運動能力だけではない。塾やパソコンゲームなどに偏った生活が多くなったため、精神性もどこかの部分で退化が進んでいるように思える。校庭や整備された立派なグランドはあるが、遊び場としての魅力に欠け、ほとんど集まらない。野球やサッカーなどのスポーツクラブは盛んに行われているが、管理された枠の中での集団でしかなく、昔あった細やかな「子供社会」が編まれているわけではない。

「もっと体力や運動能力を向上させる必要がある」と学者や文科省の役人は言うが、子供のころ勉強ばかりさせられてきた彼らの言葉に、説得力はあまりない。むしろ、当時「餓鬼大将」をやった人たちの知恵を借りることができるのなら、その方がいいに決まっている。子供の目線が分る人たちだからである。

このままでは、面白味のないデジタル的な人間や、くらげのような弱弱しい人間が増えるばかりであろう。不安である。