【街景寸考】友だちのこと

 Date:2016年10月12日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 子どもの頃、いつも自分の周りには幾人かの友だちがいた。幼稚園のときも、小学校に入学したときも、学年が変わって組み替えがあったときも、友だちは自然のうちにできた。自分との相性や性格など考えたことはなかった。一緒に遊んで楽しかったら、誰もが友だちだと言えた。ケンカをしても、直ぐに仲直りできた。

 大抵の子どもは、自分と同じような感じで友だちをつくってきたように思う。友だちの数を増やそうと思えば可能だったかもしれないが、放課後や休日に何かをして遊ぶときも、遊ばずにただ固まっているときも、その数は、5、6人が限界だったように思う。

 大人になってからは、子どものときのような調子では友だちはできなかった。職場の同僚や野球の仲間を別にすれば、友だちをつくりたいと思っても簡単にできるものではないことを知った。気が合いそうな者が近所にいても、ゆっくりと話すような機会もない。

 そういう機会ができにくいのは、「友だちになりたい」という意識が妨げているということもある。恋人をデートに誘うときのドキドキ感に似たところがあるからだ。それに、男が男にしゃちこばって「友だちになっていただけませんか」と言えば、妙なふうに勘違いされかねない。

 親しくなりかけても、考え方や趣味の違いがあると分かれば、その者への関心が急速に薄れていくかもしれない。親しくなっても、子どものときのように無邪気に遊ぶわけではないので、そのときの気持ちを持続していくのは難しそうだ。その辺のメンテナンスを考えただけで、却って心の負担を感じて億劫にもなりそうである。

 これらのことから、大人になってから友だちをつくるのは面倒くさいという結論に落ち着いた。子どもだったころの友だちづくりは、なんと寛容であったことか。お互いが心の窓を開け放ったままでの交流なので、出入り自由という気安さだけで結ばれていると言っていいくらいだ。この気安さが強い接着剤になっていたように思う。

 自分の場合、ソフトボールや野球の仲間がいる。これらの仲間は子ども時代の友だち関係に酷似している。集まる場があり、そこでは気遣いはなく、言いたいことを言い、冗談を言い合う場でもある。わたしの場合、この関係が人生のいい調味料になっている。