【街景寸考】考えるべき順序は

 Date:2016年10月19日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 60歳を過ぎた今でも「人間とは何か」という問いかけを、自身にすることがある。この問いかけは、いつも何かの拍子で突然もたげてくる。そのときの自分の心境とどう繋がっているのかは、分からない。向こうから勝手にくるという感じなので、まともに相手にすることはほとんどない。

 「人間とは何か」に関心がないわけではないが、関われば頭の中がもつれてしまいそうで、腰が引けてしまう。それを思考すること自体がとても面倒になりそうなので、嫌いである。なので、この問いかけがあったときは、頭を振り払い、別のことを考えるようにしてきた。

 その辺の対処は、トルストイが書いた「人生論」の冒頭部分からも学んでいた。学生時代のことだ。その大筋はこうである。「ある優秀な粉ひきがひょんなことから、粉をひくためにつかう水車に興味を持った。更には水車を動かしている川のことに興味を持ち、ついには水の研究に没頭したあげく、その粉ひきはまともな粉をひけなくなった」というものである。

 ここでトルストイが言いたかったのは、何かについてどんなに考察をしても、考察の順序を誤れば不合理な結果を招いてしまう、ということである。人生のことで例えるなら、優先すべきは「人間とは何か」ではなく、「幸せになるにはどうしたらよいのか」という問いかけであるように思う。人生の目的を見失わないための忠告にもなりそうだ。

 「人間とは何か」も、ある意味大事なことなのかもしれないが、すこぶるマニアックな領域のことのようであり、胡散臭く思えてしまう。よしんば答えを見つけることができたとしても、それが自分の実人生の何かに役立ったり、幸せに繋がったりすることとは、別ものではないかと思ってきた。

 「幸せになるにはどうしたらよいのか」という考察も、決して易しくはないだろうが、「人間とは何か」よりも身近な手触り感があり、誰もがその答えを探し出すことができそうに思える。極端に言えば、長々と考察をしなくても、心持ちひとつで、幸せへの足がかりを掴むことができるように思えることがある。

 幸せとは、そういう一面があるようにも思う。