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【街景寸考】続「いじめ」のこと
Date:2017年03月22日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
以前、小欄で「いじめ」のことを書いたことがあった。その際、「いじめはなくならない」「対症療法で凌いでいくしかない」という言葉でしか結べなかった。残念ながら、この考えは今でも変わっていない。
学校や職場など、日常的に複数の人間が寄り合う空間のあるところでは、大小の差はあれ「いじめ」はどこにでも可能性としてある。その光景をあまり見ないのは、各自が理性で蓋をしているか、あるいは人目に分からないようにしているかである。
「いじめ」は、元々人間に具わっている性分ではないか。「生まれながら」の性分であれば、本能的な行動の一部だと言える。自分と合わない他者を排除しようとする本能もあれば、自分の生存を維持しようとする本能もある。更には意地悪をして快感を得ようとする本能もあるかもしれない。これら本能が攻撃的になったとき、「いじめ」になるのではないか。
「いじめ」による自殺があるたびに、疑問に思うことがある。いつも学校側が登場し、報道陣の前で吊るしあげられ、「いじめ」があったことが明らかになれば頭を下げ、詫びていることだ。
明らかに「いじめ」を見過ごしていた場合は別として、調査の結果でしか分からないような場合まで、なぜ学校側が詫びなければならないのか。ここで学校側をかばうつもりは毛頭ない。ただ、学校側が調査をしても、詫びても、何の根本的な解決につながる方向へ前進するとは到底思えないのである。
わたしが小中学生だった頃の記憶では、いじめっ子は勉強のできない子、家が貧しい子、親の夫婦仲の悪い子、親が離婚しているところの子などで、いずれも腕白坊主だったという点で共通していたように思う。いわゆる生活弱者と言われる世帯の子たちであり、他の子より大柄で腕力の強そうな子だった。しかし、この時代に「いじめ」で自殺したという事件の記憶はない。
自殺まで至るようになってきたのは、経済格差や学歴偏重、核家族化、地域コミュニティの崩壊、ガキ大将を親分とする子ども社会の崩壊、更にはスマホ・ケイタイの普及などの、社会の構造変化が生じてきてからのことだと考える。
この変化により従来型の「いじめ」は薄まり、昨今は何かのきっかけで誰でもが「いじめっ子」側になったり「いじめられっ子」側になったりするようになった。教育現場での対応が一層難しくなってきたのは、この変化のせいだ。
「いじめ」は社会全体の責任だと言えば、そのとおりである。こう言えば責任の所在がぼやけてくるが、少なくとも教育現場だけに背負わせるのはおかしかろう。