【街景寸考】「反抗期」のこと

 Date:2017年04月19日14時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 いつの時代にも、「こうしろ、ああしろ、勉強しろ」と口うるさい親はいる。子どもの顔を見るたびに叱り続ければ、子どもに鬱積されたストレスはいつか爆発することがあっても不思議はない。爆発して大喧嘩になるくらいならよいが、たまに子どもが親を殺したり、子どもが自ら命を絶ったりするという最悪の事件になることがある。

 この手のニュース報道に接するたびに、「なぜ親はこうなるまで、子どもを追い詰めてしまったのか」と、まず不可思議に思う。同時に、その最悪の事態に憤りを覚える。親が、自分の言うことを聞かない子どもに腹が立ち、叱りたくなる気持ちは理解できる。その子どもでさえ、叱っている親の気持ちが分からないわけではない。

 しかし、毎日叱り続けることが本当に子どものためになるとは思わない。こんな簡単な道理が解らない親が実際にいるということに驚く。子どもが親の言うことを素直に聞くのは、せいぜい小学2年生くらいまでだ。それ以後は、自力で物事を考え、行動する心が育っていく。この成長の裏返しが反抗期だと言っていい。

 親はこうした子どもの成長に配慮し、見守っていく度量が必要になってくる。そういう度量だったのかどうかは分からないが、中学校に入学したとき母は「中学生になったら、もう一人前なんだから」と、わたしに言ったことがあった。以降、母から励まされることはあっても、叱られることはなかった。そのせいで、教師に反抗することはあったが、母に反抗することはなかった。

 叱らなければ、反抗されることもない。反抗がなければ衝突もない。叱らないというのは放任することとは違う。放任するふりをして、見守り、励ますという意味にもなる。いわゆる放任主義のことだ。わたしの子どもたちの場合、放任主義を意識したことはなかったが、母と同様の接し方をしてきたつもりだ。

 そういえば、90歳を過ぎた母が、ときに反抗期のような我がまま娘に変貌することがあった。その我がまま娘と年甲斐もなくたまに衝突することがあった。こうした母にもっと配慮するくらいの度量が自分にはなかったことになる。

 「かあちゃん、ごめんなちゃい」。