【街景寸考】弱くなった足腰

 Date:2017年06月07日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 60代も後半になってくると、足腰が弱くなったことを認めないわけにはいかなくなった。寝起きのときや座椅子から立ち上がろうとするとき、バランスを崩してよろけるようになった。次に歩こうとすれば、覚束ない歩き方になる。転ばないように歩くには、歩幅を狭くして少しずつ前に進むしかない。

 足腰が弱くなってきただけでなく、身体も硬くなってきた。粘土が乾いたときのように硬くなった。前屈運動をするとき、以前は同じ動作を繰り返していると徐々に手先を床に着けることができたが、今は何度繰り返しても手が着かなくなった。

 膝を後ろに曲げ、その足先を手で掴むという動作もできなくなった。野球の試合前にこのストレッチをするときがあるが、何度繰り返しても足先が掴めない。そんなわたしの動きが可笑しいらしく、仲間たちから声を出して笑われるときがある。「身体が硬いんじゃなく、足が短いからだ」と評する輩もいたが、短足であることは関係ないはずである。

 身体が硬くても日常生活に困るということはなかったが、最近、トイレでの尻ふきが難儀になってきた。後ろに回した手が肛門に届きづらくなったのだ。野球の試合があった翌朝などは、全身がこわばっているので、まったく届かない。それならと前から手を伸ばしてふくことを試みたが、かえって肛門までの距離が遠くなることを知った。

 ともあれ、「齢を取るということは、こういうことなのか」と実感するようになった。数年前までは足腰の衰えを感じながらも、「いやーぁ、齢を喰ったよ」という言葉にも余裕があったが、今は額面どおりの言葉になっている。

 転ばないように歩幅を狭くして歩くとは言ったが、歩き始めのほんのわずかな間だけである。直ぐに正常な状態に戻ることができ、早足で歩くことも、軽く走ることもできる。この動きができるまでは、好きな野球を続けていくつもりである。この目標は、ただのカラ元気に支えられているに過ぎないことは承知している。

 先日、春牡丹が咲いているところを近所の庭で見た。すぐさま、「立てば芍薬(シャクヤク)、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という諺が出てきた。同じ調子で自分を表現するなら、「立てばコンニャク、座ればビキタン(カエル)、歩く姿はオットセイ」といったところである。カラ元気を大事にしていきたい。