【街景寸考】「語彙不足」のこと

 Date:2017年07月05日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 先日、複合商業施設の中にある大きな本屋で、3冊ほど本を買ってきた。思えば3カ月ほどの間隔で本屋をのぞいている。この間隔は、自分の文章力のなさに呆れ、悔やんでいるときと重なっているようにも思える。 

 ところが、このとき買った中の一冊は、3カ月ほど前に買ったばかりの本だった。3カ月ほど前に買った本のことを忘れるというのは、いかに漫然としか読んでいないということが言えるが、わたし自身の国語力や読解力の低さにも原因があるのは確かだ。

 国語力や読解力が低いのは、子ども時代にほとんど本を読んでこなかったからだ。恥ずかしながら、大学生になるまで学校の教科書と漫画本以外の本は読んだことがなかった。本に興味がなかったということもあるが、身近に本を手にできるような環境にはなかったということも影響したように思う。

 子どもの頃に本を読まなかったということは、その時期に多くの子どもが会得する言葉を知らないまま大人になったということだ。自分の持っている語彙の数が普通のひとよりも格段に少ないということでもある。このことにコンプレックスを抱き続けてきた。語彙にこだわるのは、人間の思考力や判断力と強い関係性があると思ってきたからだ。

 作家と言われる人たちは、例外なく子どもの頃から大量に本を読んできた過去がある。村上春樹も又吉直樹もそうだ。本をろくに読んでこなかったわたしが、文章に興味を抱くようになったのは、大学時代に読んだ漱石の小説からだった。「文字を組み合わせることで、こうも人間の面白さが描けるのか」と、大いに興奮させられたのだった。以後、わずかなアルバイト代の中から捻出して、色々な小説を買っては読むという時期があった。

 ところが他の小説を読んでも、漱石のときのような面白さを味わうことはあまりできなかった。芥川賞受賞作品に限って言えば、いずれも自分には難しく、文章のリズムに乗っかって読むことさえできずにきた。近年の受賞作を読んでも、この印象は変わらない。

 面白くなかったり、難しかったりするのは、わたし自身の国語力や読解力の低さにある。この現状を克服していくには、やはり本を読んでいくしかない。あまりにも遅すぎる後悔であり、反省である。語彙力をつけていかなければ、まだ知らない人生や世間の面白さに気付けないまま終わることになる。

 そう思うと、不安である。