【街景寸考】「舞台と楽屋裏」のこと

 Date:2017年07月12日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 舞台で演じているときの役者さんは、本来の自分を役柄で覆っているので、本当はどういう人柄であるのか観客には分からない。舞台では度量が広く、大胆な役柄を演じていても、楽屋裏では遠慮深く、周囲に細やかな配慮をする人柄だったりすることがある。もちろん、この逆の場合だってある。

 舞台と楽屋裏での人物像の違いは、何も役者さんに限ったことではない。一般の人々でも職場にいるときと自宅にいるときでは、人物像に違いがある。職場では、上司は上司らしく、部下は部下らしい役柄を演じているので、必然、本来の自分を抑えた状態にある。つまり、一般の人々にとって職場は課せられた役柄を演じる舞台でもあり、自宅は本来の自分に戻ることができる楽屋裏のようなものだと言ってよい。

 もっとも、確かに自宅は職場よりも本来に近い自分を出すことができる場所ではあるが、厳密に言うと本来の自分そのものではないはずである。男性の場合であれば、大なり小なり夫や父親という役柄を演じているからだ。自分の部屋にいるときを除けば、自宅とはいえ楽屋裏ほどは本来の自分を出すことができない空間だと言えなくもない。

 以前、テレビ番組で「役者さんは、色々な役を演じなければならないので大変ですね」と問いかけられた役者さんが、「いや、かえってストレスの解消になることがあります」と答えているのを観たことがあった。意外な答えだと思ったが、同時に人間の持つ内面の面白さを言い当てているような気がして、役者心理の一部分を垣間見ることができたような嬉しさがあった。

 この役者さんの場合、例えば本来は小心者だったとすれば、大胆で度量の広い役柄を演じることで、自分の弱点をあたかも克服することができたような痛快な気分になるのではないかと推測した。「ストレスの解消になります」と答えたのは、そういう類いのことだったのではないかと。舞台で色々な人間の役柄を演じることができるのは、おそらく役者冥利に尽きるのだと思えた。

 人柄を微妙に変えることの面白さや痛快さは、一般の人々でも味わえないことではなかろう。職場を舞台にみなすことで、自分がなりたかったタイプの人物を色々と演じればよいのだ。普段職場で演じている上司役や部下役より、上手くいくことがあるかもしれない。

 こう考えると、職場という舞台の居心地を良くも悪くもするのは、自分をどう変身させるかに掛かっていると言えまいか。職場以外でも同じことが言えそうだ。