【街景寸考】誤解を恐れずに言えば

 Date:2017年10月18日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 最近、「ベランダから飛び降りろ」と生徒に暴言を吐き、保護者から訴えられた中学校教師のことが報道されていた。その教師は直ぐに担任を交代させられたようだった。このテレビ報道を見ながら、今どきこんな暴言を吐く教師がいたものだと思う反面、この程度のことで大きな問題にされた教師が気の毒だという思いもあった。

 気の毒だと思ったのは、わたしたちが中学生だった頃と比べてみたからだ。当時だったら、これぐらいの教師の暴言は日常茶飯だった。こうした教師の言動が、教育上の問題として地域や教育委員会で取り上げられることはなかった。「バカ」「アホ」「タコ」は普通であり、「(教室から)出て行け」「(家に)帰れ」「死ね」等の暴言も珍しくはなかった。

 体罰も暴言とセットになることが多かった。黒板消しや箒の柄で頭を叩かれ、鞭のような青竹で力いっぱい尻を叩かれた。組体操の練習でやぐらを組んでいるとき、体育教師が下で支えている生徒を「真面目にやれ!」と叫んで腹を蹴り上げ、上にいた生徒が落ちたこともあった。これはやり過ぎだと思ったが、それでも問題にはならなかった。

 今、教師の暴言、体罰があれば大きな問題になる時代になった。こうした教師は教育現場から排除されて然るべきであることには異論ない。こうした世論の影響により、教師による子どもへの人権侵害は大幅に減少してきたように思う。教師たちも感情的な言動を自制するようになった。

 一方で、「教師のあるべき姿」が厳しく求められる中で、「叱責」や「指導」が教師による「いじめ」と混同されることもあり、本来の教育さえ行うことが難しい時代になっている。教師にとっての、こうした檻の中のような窮屈な教育現場は、それはそれで子どもたちにとって大変不幸なことのように思えて仕方がない。

 原理主義という言葉がある。良いと信じる考え方を絶対視し、その考え方を他人にまで強要しようとする思想だ。この原理主義が世にはびこってくると、人々に寛容さがなくなり、お互いに息苦しくなり、とげとげしくなってしまう。

 誤解を恐れずに言えば、教師に対する世間の目も、セクハラやパワハラのことにしても、禁煙のことにしても、この原理主義が暴走しているような思いがしてならない。寛容さに相反する言葉が原理主義だ。不寛容の時代とは、原理主義がはびこる時代だと言える。

 博多弁に「よかろうもん」という言葉がある。わたしに限って言えば、これまでよく使ってきた言葉だが、今後は意識的に、頻繁に使っていきたい。