【街景寸考】「ハグする」のこと

 Date:2017年11月08日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 「ジイジ、抱っこ」。孫娘たちはそう言って、わたしに両手を広げて飛びついてくる。この瞬間がなんとも嬉しい。ジイジの役得というところである。一方、自分の子どもたちとハグをしなくなって20数年は経った。今後もその機会は期待できそうにない。孫娘たちとも小学校低学年くらいまでしかできないと思うと、寂しい気持ちになる。

 ハグはお互いの心を通わせる、最良のスキンシップと言える。欧米人には誰とでも気安くハグをする習慣はあるが、日本人の場合、公然とできるのはジジ・ババと孫との関係だけである。戦後70年間、絶えずアメリカ文化を取り入れてきた日本だが、ハグの文化は恥の文化を越えることができないままにきた。

 本音を言えば、大人になっている子どもたちとハグができればと思ってはいるが、行動に移すのは難しい。子どもたちが間違ってノーベル賞を受賞したとか、災害の中で九死に一生を得たというような場合でなければ、堂々とハグすることはできない。つまり日本人の場合、滅多に起こり得ない局面が生じたときにしかハグはできない。

 バレーボールや卓球、バスケットボールなどの球技では、得点をするたびに嬉しくて選手同士がハグすることはない。得点が得やすい球技だからである。ところがサッカーのように得点するのが困難な競技は、1点が入っただけでも狂喜し、強く抱き合う。これは親子が普段しないハグするときの原理と同じだ。

 しかし、そのハグも感情が昂っている間のことであり、少しでも間があいてテンションが下がれば、もはや恥ずかしさが先に立ってハグはできなくなる。

 更に、ハグは片方の感情だけ昂っていても成立しづらい。先日、ハグをしようとしてすべった男性をテレビで見た。被災者を乗せた自衛隊のヘリが降り立ったところだった。無事を喜んで出迎えたその男性が、女房とおぼしき女性のもとへ駆け寄ったのだったが、期待したハグができなかったのだ。

 この場合、亭主が心配したほどには、女房は災害による不安や恐怖を味わったわけではなく、いわゆる九死に一生の局面を体験したのではなかったのだ。だから、人目をはばかろうとする気持ちの余裕があったのではなかったか。

 そう言えば、子どもたちとのハグは期待できなくなったが、ハイタッチなら以前はよくしていた。これだったら、いつでも再開できそうだ。心を通わせる効果としては、ハグとそう変わらないのではないか。