【街景寸考】「足るを知る」のこと

 Date:2017年11月29日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 動物は本能だけで生きているのではなく、生き抜いていくために必要な学習もしているようだ。知識としては知っていたが、その学習らしき行動の一端を、飼い猫(黄太郎と次郎)の様子を見ていて実感できた。その様子とは、猫たちの物音に対する反応である。

 カミさんが炊事や掃除、洗濯機を回すときなどの音、室内ドアの開閉音、自宅のそばを通る車のエンジン音など、日常的な生活音がしても彼らの反応は微々たるものでしかない。学習によって、危険の対象となる物音であるのかないのかを瞬時に見極めているからだ。

 ところが普段聞き慣れない物音の場合、例えば、壁に立てかけていた掃除機が床に倒れたときの音や、電柱工事の高所作業車の轟音などのときには、反射的に驚き、警戒しながら身構える。だが、聞き慣れない物音であっても、その後も断続的な物音として聞き、それが危険なものではないことを学習してくると、反応が段階的に小さくなってくる。

 猫たちのこうした学習は、生き抜いていくための本能的な行動からきているように思える。ヒトとの比較で言えば、学習によって得られる経験は、知識となり知恵となるが人間である。猫たちの場合は、あくまで生きて行くための本能の域を出るものではない。

 人間が学習によって得た知恵は、必ずしも生き抜いて行くためのものだけとは限らない。学習によって得られる知恵からは悪知恵を生むこともあり、悪知恵からは悪意やたくらみを秘めた、よこしまな行動が生まれ、出世欲や権力欲や金銭欲などにつながっていく。人間はこうした欲望を持ったがゆえに、迷ったり、悩んだり、憎しみを抱いたりしている。

 知識や知恵で人間はより進歩し、今日の繁栄を築いてきたが、一方で悲劇や不幸、退廃も招いてきた。猫たちの学習からは、進歩はないが悪知恵も邪念もない。従って、人間が持つこうした迷いや悩みもない。貧富の差を妬んだり、苦しんだりすることもない。ウチの猫たちを見る限り、毎日が幸せそうに見える。

 まさに「足るを知る者は、富む」を地で行く姿である。アマゾンの未開地で暮らす孤立部族も、猫たちのように何千年も同じ生活を幸せに続けてきたのではないか。混沌とした現代社会よりもずっとましに思えることがある。

 あり得ないことだが、仮に現代人が未開社会に後戻りし、猫たちのような進歩のない暮らしに喜びを見出すことができるとしたら、それは人間にとって「大きな進歩」だとは言えまいか。「過ぎた欲は、身を滅ぼす」という格言もある。

 そんな目線でウチの猫たちを見るようになった。