【街景寸考】大相撲のこと

 Date:2017年12月27日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 幼稚園の頃から大相撲が好きで、本場所があるときはいつもラジオに耳を傾けていた。相撲が好きになったのは、多分に祖父の影響によるものだった。この頃、吉葉山、千代の山、鏡里の三横綱がいた。大関、関脇で勢いのあったのは、後に横綱になった栃錦、若乃花だった。丁度テレビが一般に普及していた頃が、栃若時代の全盛期になった。

 大相撲をテレビで見ながら、不思議に思っていたことがあった。力士たちは勝負に勝っても、土俵上で嬉しさをすこしも表情に出さなかったからだ。勝っても負けても、力士たちは同じ表情のように見えたのが妙に思えた。小学校高学年の頃になると、それが力士間の礼儀のようなものかもしれないという思いを、何となく感じることができた。

 後年、勝った力士のこうした所作が、負けた力士への思いやりであり、おごってはならないという相撲道の精神によるものであることを知り、納得できた。そういえば柔道や弓道、剣道にも、こうした力士の所作と相通じるところがある。これらの所作は、おそらく武士道の流れからきたものだと推察できる。

 しかし、その相撲道も時代とともに徐々に変化してきた。相撲道の手本となるべき横綱の品格を落とす横綱も、現れるようになってきた。勝った直後に土俵上でガッツポーズをした横綱、勝負がすでに決まっているのに、相手力士を土俵下に駄目押しをする横綱、立ち合いで相手の首や顔面をめがけて鋭くかち上げをする横綱。

 こうした横綱の行為は、相撲関係者も眉をひそめ、最近では口を衝いて出るようになってきた。この現象は、相撲道の伝統文化を守ろうとする価値観と、所詮勝つか負けるかの世界だとする価値観とがガチンコしている様相に見えなくもない。これに関しては、門外漢が出しゃばって物申すところではない。

 昨今、日馬富士の暴行、傷害事件のことで、メディアはまるで恰好の餌にありついたハイエナのように連日騒がしい。土俵外でのこうした事件やスキャンダルは、この10年くらい前から頻発してきたような印象がある。メディアの覗き趣味が以前にも増して強くなってきたことも、影響しているように思う。

 それにしても今回のこの事件、誰かが日馬富士をすぐに止めに入ってさえいれば、メディアの餌食にならなくて済んだのではないか。それができなかったという体質自体に、今回の事件の根深さを思う。ただ、土俵外での醜態は論外であり、是非を論じる余地はない。