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【街景寸考】写真のこと
Date:2018年01月24日13時20分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
カメラで何かを撮ったりするという趣味は、少しもない。当然ながら、自分のカメラも持ったことがない。今は携帯電話の写メで手軽に撮影ができる時代になったが、その機能を未だに試したことがない。
そうかといって、写真を見るのは嫌ではない。絵を鑑賞するような気分で眺めるときも多々ある。モノクロで撮った里山や、そこで暮らす人々が写っている写真を見るのが好きである。昔撮った家族の写真や孫たちの写真の場合は、何回見ても飽きない。それらの1枚1枚が、大切な価値ある写真のように思いながら見る。
写真を撮りたいとは思わない自分ではあるが、カメラアングルになるような風景や光景が目に入ってきたときは、敏感に反応する性質がどこかにあるようだ。その性質が瞬時に反応したときは、慌てて近くにいるカミさんか誰かに写真を撮るよう頼んでいる。カミさんたちの手が空いてなければ、素直に諦めるようにしている。
一方、写真を撮られる側でいるときのわたしは、とても苦痛で仕方がない。写真写りの表情が良くないからだ。実際、自分の写っている写真の中で、気に入っているものはない。変顔ばかりである。変顔になるのは、撮られることを過剰に意識しているからだ。
男前に写っていてほしいという願望があるわけではない。普段どおりの顔であれば、それで十分だと思っている。ところが、レンズに向かって優しい顔をしていたつもりが、地獄を見ているような顔になっていたり、微笑みを浮かべているつもりが、ひょっとこ面のようになっていたりする。
どうして多くの人は、自然体でカメラレンズに臨むことができるのだろうか。そのことが不思議であり、羨ましくもある。自分が気に入っている写真には、共通点がある。自分が撮られていることを知らないときの写真である。
自然体で写ることができる人から見れば、そのレンズはただの機械の目でしかないのかもしれないが、わたしには、どうしてもそのように思うことができない。何か得体のしれない目、心の底まで見抜く物の怪のような目に見えたりするのである。
自然体になれない理由は、他にもある。レンズに表情というものがないことである。人間の自然な表情は、相手がいて作られるものである。だとすれば、レンズに向き合っても表情の表しようがない。変顔は、その戸惑いが大きな原因になっている。
ともあれ、レンズの前での戸惑いを克服するのは、まだまだ先のことになりそうだ。