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【街景寸考】散歩と散策のこと
Date:2018年03月28日08時01分
Category:
エッセイ
SubCategory:
街景寸考
Area:
指定なし
Writer:
大昭寺いさじ
最近、あえて散歩をしたい思うことがなくなった。ウォーキングやジョギングはほとんど毎日やっている。ウォーキングやジョギングは身体の健康増進を目的としたものだ。ウォーキングのときは、歩幅を少し広げて速めに歩く。ジョギングは急ぎ足程度の速さで走る。いずれも息切れをするような無理はしない。
ウォーキングやジョギングを欠かさないのは、前に丸く出てきた腹を元に戻したいからだ。ぶらぶら散歩をやっても、腹がへこむことにつながらない。ウォーキングと散歩は同じ歩きではあるが、目的も効果も全然違うものだと言っていい。
思えば、貧乏暮らしをしていた学生時代も、安定した職に就くことができなかった貧乏時代も、散歩をしたことがなかった。暮らしにも心にも余裕がなかったからだ。夕暮れの街並みや公園の草木を見ながら歩きたくなるのは、いずれかに余裕があるときのようだ。
散歩をするようになったのは、家庭を持ち、子どもが生まれてからのことだ。暮らしに余裕はなかったが、心に余裕ができていたのかもしれない。小学一年生を頭に、4人の子ども全部を引き連れて散歩を続けていた時期があった。仕事から帰ってからなので、夜半の散歩だった。子どもたちは大いにはしゃぎ、夜半の暗さを楽しんでいるふうに見えた。
最初は、少しの間でもカミさんから子どもを解放してやりたいと思って始めたことだったが、この散歩で仕事の疲れが癒され、気分転換ができていることに気づいた。効果はまだあった。心の整頓ができ、仕事上のアイディアやヒントも浮かんできた。
出張先でも短い散歩を楽しむようになった。散策と言ったほうがいいのかもしれない。風情のある下町を探してはぶらぶら歩き、歩きながら下町情緒を味わおうとした。特に、狭い路地裏を歩くのが好きだった。よく手入れされた盆栽、開き放たれた引戸の奥から現れそうな気取りのない人情、古家の小綺麗な格子戸、軒先に吊るした何鉢もの観葉植物、はばかることなく干されている洗濯物等々に親しみが持てた。
どこの路地裏も初めてなのに、どこか懐かしく、愛おしく思えた。そこで暮らす人々から、ちょいと頭を下げてもらったり、軽い笑顔を投げかけたりしただけで嬉しくなった。嬉しくなって、その界隈で暮らしている自分を想像しながら歩いた。
散歩も散策も、同じぶらぶら歩きであるが、漫然と歩く散歩とは違う。散策は快い緊張感がなければならない。久しぶりにウォーキングとは別に散策でもやってみるか。