【街景寸考】競争心では得られないこと

 Date:2018年04月18日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 自分の能力や技術を磨こうとするとき、誰かと競争できる類のものであれば、競争心が強いほど上達は速くなる。加えて、競い合う相手が自分より優れていれば、更に上達はより速くなるはずだ。

 競争心のことで頭に浮かんでくるのは、幼稚園での徒競走だ。先頭を走る園児は、いかにも競争心を顕わにし、しっかり顔が前を向いている。後方を走る園児は、不安げな表情をしていたり、締まりのない笑いをしていたり、よそ見をしたりして頼りなげである。

 この光景を見ていて思ったのは、そこでの順番は本当の足の速さばかりではないだろうということだ。競争心が芽生えているかいないか、それが強いか弱いかの差によるところが大きいのだと。本当に足の速い子が先頭を走るようになるのは、どの子にも競争心が芽生えている小学校2、3年生頃なのではないか。

 競争心の有無、強弱の差による順位は、大人の世界でも同じである。ライバルがいて、「負けたくない」という競争心があれば、仕事の上達は早くなる。わたしの場合、社会に出て直ぐの頃は出世欲や金銭欲もなかったせいか、競争心というものがまるでなかった。この点では、徒競走で後方を走る園児に似ていたはずである。

 競争心らしきものが多少生じてきたのは、結婚してからだ。安穏と社会の後方でふらふらしているわけにはいかないと思うようになったからだ。たまたま同じ職場に有能な同僚がいてくれたことも、競争心を燃やす良い機会になった。この時分の競争心が、その後の自分の人生を人並みにすることができた大きな要因になった。勿論、運もあった。

 少し話を逸らす。粗野で下品な性格であるわたしは、自分の品を何とかしたいという思いを持っていたことがあった。ところが、どう品を上げていったよいのかその術が分からず、誰かと競争すれば成果がでるという性質のものでもなかった。せいぜい、近くにいる品のある人間を凝視し、そのふりを真似ていくしかないように思えた。

 ところが、真似てみたい人物が近くにいても、ただ漫然と眺めていることしかできなかった。自分の感度、感覚が疎かったということもあるが、生来の不器用な性格も妨げになっていたように思う。

 弁解がましいが、人間の品というのは、所詮それまで置かれてきた環境に大きく左右される性質のものだと考える。せめて競争心の入り込める余地があるものなら、こんなわたしでも「どことなく品がある」くらいにはなれたのではないか。そう悔やむことがある。